【終活】葬儀やお墓って誰のためとか考えたことある?




 

【終活】葬儀やお墓って誰のためとか考えたことある?

 

こんにちは

 

 

 

加藤あやめです。

 

 

 

音楽や匂いって懐かしさで胸をキュンとさせますね

 

 

今日、朝の用事が一段落したので、お茶でも飲もうかなとコーヒーをすすりながらテレビをつけて、なんとなくリモコンでチャンネルを探っていたら、

 

聴こえてきた音楽に懐かしい感覚が沸き起こり、手を止めました。

 

 

 

 

俳優の火野正平さんが、自分の愛用している自転車に乗って日本各地を旅する番組があります。

 

 

 

確か、“こころ旅” というタイトルの番組でした。

 

 

 

内容はというと、

 

その番組あてに視聴者さんから手紙が届きます。

 

 

 

例えば、

 

「高校生の頃、毎日自転車に乗って通っていた学校の帰り道に、少し回り道をして○○山から夕陽を眺めたことを思い出します。

 

気持ちが沈んだ時にも、いいことがあった時にも、その夕陽を見に行って、ほんの少し一人の時間を過ごすことが好きでした。

 

 

ここから見た景色がとてもきれいで、懐かしいです。もう、何十年も昔のことで、今はその土地を離れて暮らしています。

 

 

今も、あの景色が残っているのかは分かりませんが、よかったら○○山に夕陽を見に行ってみてください。」

 

 

 

 

のような、「思い出の地」にエピソードを添えて紹介するお手紙が送られてくるのですね。

 

そして、そのエピソードに思いを膨らませ想像したりしながら、火野正平さんが自転車でその“地”を目指して走って行くのです。

 

 

 

 

私は、手術から半年ほど経ったころに、癌の再発、転移で放射線と抗がん剤の治療をするために、しばらくの間入院していたのですが、

 

 

 

そのころに、ほぼ毎朝病室のベッドの上からこの番組を眺めていました。

 

 

 

 

頭はぼーっとしていたので、楽しむとかワクワクしながら見入っているというのではなくて、“眺めていた”という感覚です。

 

 

 

私はもともと、はやりのタレントさんが賑やかにおしゃべりし、早口でのトークや笑いでごちゃごちゃした番組は苦手だったのですが、

 

この頃はさらに、賑やかさを遠ざけていたように思います。

 

 

 

 

ですから、この番組を眺めていると、なんとなく気持ちが落ち着くような気がしていたことを、画面から流れてきた一瞬の音楽の欠片が思い起こしてくれました。

 

 

 

 

音楽は、なんとなく聞き流し、眺めていただけの画面でさえも、その当時を思い出させるボタンを押したかのように、

 

懐かしさを感じさせてくれる神秘的な力がありますね。

 

 

 

 

音楽だけではなく、“匂い”にも、同じように懐かしい感覚を思い起こさせてくれる力を私は感じます。

 

 

 

私は、雨の後の公園を歩くと、大好きだった田舎のおばあちゃんの家の裏山にひっそりとたたずんでいる、小さな神社を思い出します。

 

雨が上がると、空気は湿気ていて微かに香る湿った土と緑の匂いが混ざり合っています。

 

それが、ほとんど陽の当たらない裏山の神社とどことなくかぶるのです。

 

 

 

 

もう何年も行っていないのだけれど、懐かしいその裏山の小さな神社の空気を胸いっぱいに吸いに行きたくなるのです。

 

 

 

懐かしくさせる匂いって、素敵です。

 

 

それはさておき、

 

私は、今朝の“こころ旅”から流れてきた音から、入院中の病室に入る陽ざしの角度や、ちょっぴり重く薄暗い空気間も、懐かしさを伴ってふと頭の中で断片的な映像としてよみがえりました。

 

 

樹木葬に想いをのせて

 

 

いろんなことを考えていたことを思い出します。

 

 

 

「今私が死んだら、どうなるのだろうか。」

 

 

 

 

まだ若い子どもに寂しい思いをさせてしまうのだろうと思うと、胸が苦しくなりました。

 

 

 

 

正直なところ、親や兄弟に対する感情には抱くことはなかったのですが、

 

“寂しい思いをさせてしまう”という、子どもに対しての思いは強く、

 

次々と湧き出てきては、私の心が入ったコップから“ごめんね”の言葉が音を立てずにあふれ出てきました。

 

 

 

 

私は、自分が死ぬことにはなぜだか全く抵抗がなく、むしろ自分の本音は治療をすることを望んでいなかったのですね。

 

 

 

ですから、「頑張って治したい。」という生への意欲が、本当のところ、どうしても湧いてきてくれなかったのです。

 

 

 

そんな中、唯一気がかりだったのは、“私の子ども達”のことでした。

 

 

 

「悲しませてしまう。きっと今までも寂しい思いをさせてしまっているのに、もっと寂しい思いを与えてしまうだろう。」そんな思いと同時に、

 

 

 

子ども達には迷惑をかけたくないという思いが拭えなくて、知らず知らずの間に『終活』を意識するようなったのですね。

 

 

 

気が付くと、ベッドの上で、“樹木葬”のできる墓地を検索していることがよくありました。

 

 

 

お墓は高いイメージがあり、用意しておかなければ子どもにお金の負担がかかり迷惑をかけてしまうだろうと思ったからなのです。

 

 

 

そして、私は以前から、もしも亡くなったら“樹木葬”がいいなとボンヤリとですが思っていたのですね。

 

 

 

 

それは、昔からあるオーソドックスなお墓は、墓石を管理していかなければいけないですし、“オハカ”という場所は人の気配がなく、あまり明るい気分で足を運ぶイメージがないのです。

 

 

 

けれども、私の樹木葬へのイメージはこうでした。

 

例えば桜の木を植えてそこに眠っていると考えると、公園にお花見をしに行ってる気分でプラッと立ち寄れそうなイメージだったのですね。

 

 

 

 

  “今年もお母さんの桜、きれいね。”

 

と子ども達の新しい家族がともに日なたぼっこしたり、

 

 

 

あるいは、冬の寒空の中、葉が落ちて枝だけになった木のふもとたたずみ、一人静かに何かを語ったりする。

 

  “ママ、どう思う?” 

 

など、悩んだり落ち込んだときに散歩の延長で立ち寄れる。

 

 

 

そういう場所に私がなれたら、たとえ亡くなったとしても、心を支える存在でいてあげられるのかもしれないな…などを考えたりしていました。

 

 

 

 

ですから、どうせお墓を用意するのなら、気軽に立ち寄れそうな樹木葬のできるところがいいなっと思い、スマホで検索することがあったのですね。

 

 

 

“葬式代なども、できるだけかからないように、簡素に火葬だけで済ませてくれるように伝えておこう”

 

 

 

“保険やクレジットカードなども、どこに契約しているか整理して伝えておかなくちゃっ。”

 

 

 

“今のうちに解約した方がいいかもしれないな…”

 

 

 

など、子ども達が困らないようにしとかなければいけない、とその様な事ばかりを考えていた時期だったのを思い出しました。

 

 

 

 

葬式ってなぜすると思う?

 

 

むかしお世話になった葬祭業を経営している社長が、あるとき、私に言いました。

 

 

 

「加藤さん、葬儀ってなんですると思う?誰のためにすると思う?」

 

 

 

私は、それまでこんなこと考えたことがありませんでした。

 

 

 

あえていうなら、人が亡くなったら、その故人さんがゆっくり眠れるようにと、“亡くなった人のため”に、世間の常識として当たり前に葬式をしている感覚しか持っていませでした。

 

 

 

 

「別に、わざわざお金を払って“式”をする必要はないねん。亡くなってる人はもう何もわからへんねんから、極端にいうと、役所に死亡届けをだして火葬すればいいだけやん。 

 

そやのに、なんで、葬式すると思う? 葬式をしなあかんて、決まりはないねんで。」

 

と、社長が話すのです。

 

 

 

私は始め、“え?”と、戸惑いを覚えたのですが、

 

 “うん。確かに、ほんまやな”と納得したのです。

 

 

 

その理由は、社長がこう続けたのです。

 

「残された人が、とことん悲しみに浸り、涙を流し、亡くなった人との最後のお別れに精一杯浸りきることができる時間が、葬式やねん。」

 

 

「亡くなった人のためではなくて、その人を失いたくなかった大切に思っていた家族や恋人、友人が、
日常を離れて、悲しみにだけ浸りきり、永遠のお別れなんだっていうことを噛みしめるための儀式やねん。

 

残された人のためにしているねんで。」

 

 

 

「だから、家族さんがどういう気持ちなのかを理解して、こうして欲しいという希望をできるだけ叶えられるように気づいて、思いに応えていくことが大事やねん。

 

 

そして、わずらわしい役所関係の手続きや、葬儀の段取り、手配はプロとして即行動する。

 

分からない事だらけな上に、突然大切な人を失ってどうしようとなっているのが、家族さんの立場としては当たり前なのだから、

 

安心して亡くなった人との最後のお別れにだけ、集中してもらえるように、徹底して裏側のサポートをするのが、僕らの仕事やねん。」

 

 

 

こんな感じに話してくれたのですね。

 

 

 

考えてみてください。

 

大切な人が亡くなった悲しみやショックは、一日や二日で癒やせるものでも納得できるものでもありませんね。

 

 

 

けれども、とことん悲しんで、お別れの儀式をすることで、小さくとも一区切りをつけることができるように思いませんか。

 

 

私はこの話から、残された人自身にも明日からの生活があるわけで、なにかしらの自分が腑に落ちる一区切りをつけることができれば、それは、明日への背中を押してもらえるきっかけにもなるのかもしれないな、と思ったのです。

 

 

 

私は、この話をよく思い出します。

 

 

 

私が亡くなったら、葬式などお金をかけてくれる必要はなく、簡単に済ませてくれればそれでいいと思っていました。

 

 

 

少し前に、生前の元気なうちに用意しておこうと考え、着飾って遺影写真を撮ることが流行っているとメディアで取り上げられていました。

 

 

まさに“終活”の一つだなと感心したのですが、ふとこう思いました。

 

 

・普段とは別人のようなきれいすぎるお化粧をし、ドレスで着飾った写真を残したい。

 

 

・葬式はこうして欲しい。

 

 

・亡くなった時に、葬儀に来てもらいたい人に連絡してもらうためのリストを用意しておく。

 

 

・死んだらここのお墓に眠らせて欲しい。

 

 

などなど…。

 

 

 

その時のメディアに映されていた終活から感じた印象は、

 

 

 “死んでからも我のかたまり?”

 

 

と、ちょっと引いてしまったのですね。

 

 

 

私が、樹木葬がいいなと思ったことも、もしかすると、私の“エゴ”なのかもしれないとも思いました。

 

 

 

 

少し、考えてみてください。

 

 

葬儀も、お墓も、残された人が、亡くなった人に想いをはせる場なのですね。

 

 

 

亡くなった人との関係性もありますが、とても大切な人だったとしたら、

 

 

“亡くなった人がこう望んでいたな”ということを“かなえてあげたい”と考えると思います。

 

 

 

そうすると、

 

 

「用意していた遺影写真を使ってあげたよ。」

 

 

「望んでいた葬式にしてあげたよ。」

 

 

と、お別れの儀式である葬式に、最後まで見届けることができたのだ、という感覚が残るのかもしれませんから、

 

そういう意味では残された人のための葬式になったと捉えることができるのかもしれません。

 

 

 

けれどもです。

 

見慣れない着飾った写真もいいですが、日常のなんてことない自然の笑顔の方が、残された側の人にとっては愛おしい写真のような気がしませんか。

 

 

 

呼んで欲しいと渡されたリストの中には全く面識のない人がいたりして、挨拶に追われて悲しむ間も持てず、あっという間に葬儀が終わってしまうかもしれません。

 

 

 

 

そう考えると、死んだとき以降も“こうして欲しい”と、望むのは我のかたまりに思えてきたのですね。

 

 

 

 

ただ、もしかすると、面識のなかった人から、亡くなった人の思いもかけない昔話を聞くことができて、知らなかった一面を知れて良かったと思えるかもしれません。

 

 

 

また、そこから新たな交流が始まることもあるかもしれません。

 

 

 

こんなにも多くの人が自分の大切な人の死を惜しんでくれているんだと、改めて実感でき、心に残るのかもしれません。

 

 

 

そう考えると、残される人のために今生きている間に意思表示をしておくのも悪くないのかもしれないな、とも思えてくるのです。

 

 

 

何が正解って、本当に分からないものですね。

 

 

 

 

「終活」は、生き方を考えることなのかもしれない

 

 

 

私は、物事の考え方や思いは、その時代によって変わっていったように思います。

 

 

 

それは、人や仕事から刺激を受けてであったり、様々な経験を通して感じたことなどからであったり、その要因は様々ですが、

 

 

 

ものの見方が変わったり、価値観が変わったりを繰り返しながら生きてきたように思うのです。

 

 

 

例えば、普段私は日記をつけません。

 

処分に困るからです。

 

 

 

手紙も滅多に書きません。

 

 

 

日記や手紙はその時の価値観や、感情、思いを表現するので、何年か経つと、気持ちや価値観が変わっていたりします。

 

 

 

それが、手紙を受け取った人が読み返すことがあること想像すると、私はなんだか恥ずかしくて裸になったような気になります。

 

 

 

日記は更にです。

 

もしも、何年後かに私が残したまま死んでしまったら、子ども達が読むことがあるかもしれませんね。

 

 

 

 

読む側からすると、“こんなことがあったんだな。こんなことを考えていたんだ。”と、亡くなった私のことを思い出しながら、懐かしさを感じることができていいのかもしれませんが、

 

一方で、思い出が詰まっていて捨てられなくて困るようにも思うのです。

 

 

 

 

この十年ほどは、できるだけ余計なものは残したくないと思って過ごしてきました。

 

 

 

それは、自分がこの世を去ったときに子ども達に迷惑がかかることを避けたい思いから、

 

あまり、処分に困ることがないようにしておきたいと考えていたからなのですね。

 

 

 

 

でも、残される側の人にとってはどうなのでしょうか。

 

 

確かにどこから手をつけて片付ければいいのか分からないよ、というくらい溢れんばかりのたくさんの“物”を残されるのは困るけれど、

 

“想い”は少しくらいは残してて欲しい気がするな、と最近思うようになったのですね。

 

 

 

大げさに「終活」をしなくても、“今はこんなふうに思っているよ”という言葉を伝えることが、いつか残された人となる子ども達にとって大切なのかもしれないと思うようになりました。

 

 

 

 

迷惑をかけたくないと望んでいても、かけることはきっと出てくるのでしょうし、言葉を残すことが恥ずかしいという所とは別に、

 

残してあげることがいつか子ども達の救いになるのかもしれないな、とそんな事を考えることも出てきたのですね。

 

 

 

 

結局のところ、“樹木葬”ができる墓地は近くにはあまりなくて、検索しただけで終わっています。

 

 

 

 

葬儀やお墓のことは、まだ、十代の子ども達に話しても荷が重いだろうと思い、当時は一人で決めてしまおうと考えていたのですが、

 

 

 

最近は子ども達はどう思うのか、一度話してみたいなという気持ちも出てきています。

 

 

 

簡単に済ませてくれればいいという私の思いはあるものの、

 

 

ちゃんとお別れの儀式をする機会を与えることが、残された人に対してできる最後の贈り物なのかもしれませんからね…。

 

 

 

 

私がこのブログを始めたのは、癌がきっかけで生き方や、働き方を考えるようになったことからなのですが、

 

 

 

私の思いや表現には子ども達へのメッセージも含まれています。

 

 

 

“自由に生きていいのだよ”と…。

 

 

 

 

私と同じように、病気や後遺症で“生き辛さ”を感じている人は少なくないと思います。

 

 

 

病気をしていなくても、追われる毎日に心も身体もクタクタに疲れていて、何のために生きているのかと、落胆する日々を送っている人も、少なくありません。

 

 

 

働き盛りの世代で、子どものためにもまだまだ収入を得なければ、生活していけないと悩んでいる人もいると思います。

 

 

 

今は、パソコン一つで、なんとかなるかもしれません。

 

 

 

一度しかない人生。

 

 

 

どう生きるか、考えるタイミングが今なのかもしれませんね。

 

 

 

 

誰もが心豊かに、自由に生きていいと思いませんか。

 

 

 

加藤あやめ

 

 

 

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