加藤あやめの日常から




 

固定概念の恐怖!その場にスーツが必要?失敗とは何か?

 

こんにちは

 

 

加藤あやめです。

 

固定概念,失敗,加藤あやめ,常識,

 

 

社会人の常識って何なのでしょうね。

 

 

『わぁ〜! やってもうた〜!』

 

『失敗してしまいました・・・。』

 

 

快調に話し出した顔見知りの青年の言葉です。

 

 

 

 

私たち人間が今の世の中を生きていく中で、一体何が失敗で、何が正解なのでしょうね。

 

 

今日は、固定概念ってやっぱり怖いなって感じたできごとのお話をしますね。

 

 

スーツを着なかったことが失敗なの?

 

 

私は、時々一人で飲みに出かけます。

 

 

お酒に強いわけではありませんが、飲むことが好きなのですね。

 

 

 

抗癌剤の治療中は何を食べても美味しく感じませんでしたから、食べることも辛く、お酒を呑みたいという気持ちさえ湧いてこなかったので、一滴もアルコールを口にすることはありませんでした。

 

 

 

 

治療後も、何に対しても気力がなく意欲が湧かない状態が続いていましたが、

 

もしもまた心も身体も元気になれたとしたら、好きだったお酒を“美味しい”と感じて飲むことができたら幸せだな…などと考えたりする日もあったのですね。

 

 

 

そして、今はたまに生ビールを頂くと“美味しいな”と、小さな幸せをかみしめることができるようになっていますから、治療中の夢が一つ叶ったといえるのかもしれません。

 

 

 

無気力で生きることに前向きになれなくなっていた当時からすると、ビールを口にして美味しいと言える自分が今いることは不思議な感覚でもありますが、素直に嬉しいと感じます。

 

 

 

昨日も、時々一人で行くお店にプラッと立ち寄ってきたのですね。

 

 

 

いくつかの肴とアルコール何杯かを頂き、もう帰ろうかなと最後の一杯を注文して“おあいそ”(お会計)をしてゆっくりと飲んでいたところ、時々見かける青年が一人でお店に入って来ました。

 

 

 

『あ、加藤さん。こんばんわ。』と、私の横一つあけた隣に腰掛けながら声をかけてきました。

 

そして座った途端にお店のマスターさんに『ちょっと聞いて下さいよ…』と、話だした彼は、いつも明るく早口でテンポよく話します。

 

 

昨日も快調に話し出したのですが、お題は職場の話だったのですね。

 

 

 

彼が勤めている職場で、どうも近々、勤務体制が変わることになったらしいのです。

 

今通勤しているところと、別の場所にあるところとを数日単位で入れ替わりながら通うことになるらしいのですね。

 

 

 

そこで、数日前に新しく通うことになっている職場の人達と顔合わせを兼ねた飲み会があったそうなのです。

 

全くの初対面の人達というのではなく、学生時代からの知り合いもいれば研修などでも何度も会って話をしたことがある人達との会だったそうです。

 

 

 

そして、彼は上司からその会に参加するように言われた時に、『服装は別に気を使わなくていいし、普段のラフな格好でいいよ。』と聞いていたらしいのですね。

 

 

 

彼が勤めている職場では、制服に着替えるため、特に指示のあるとき以外はスーツに身を包んで通勤する事はないようで、
私が見かける時も、いつもハデでも無ければ地味でも無い、嫌みのないラフな服装の印象がありました。

 

 

 

話の続きを聞いていると、言われたとおり普段のカジュアルな服装でその会に向かったところ、他の同僚達の多くはスーツでビシッと固めてきていたらしいのですね。

 

 

そこで彼は、『えー。普段着でって言ってたにのマジで!』となったのだそうです。

 

 

 

すると、同僚から帰ってきた言葉は
『そう言われたとしても、一応スーツが常識やろ。当たり前やん。』

 

そうサラッと言われた彼は“やってもうたー!”と、なってしまったということを話だしたのですね。

 

 

 

そして、『失敗してしまいました。』と、お店のマスターやママさんにぼやいていたのです。

 

 

すると、マスターやママさんが続けてこう返します。

 

 

『そら、常識やで。まだまだ勉強不足やな。社会人という自覚が足らんなー。』

 

 

そして、『けど、これで一つ賢くなったんちゃうか。この失敗を教訓にして、次からはもっと意識しなあかんなー。』というような言葉が続いたのですね。

 

 

『はい…。恥ずかしかったからじっとおとなしくしてました。カッコ悪いわー。』と、苦笑いを浮かべ、髪をかきむしりながら彼も応えているのです。

 

 

 

私は、『何で失敗なの?普段着でいいって言われてたんでしょ?そんなに気にすることなのかなぁ。』と、少し会話に入ったのですね。

 

 

すると彼は真顔で、
『もう学生じゃないんで、僕が失敗ですよ。自分だけ浮いてる気がしてカッコ悪いわって目立たんようにしてましたもん。』と、話すのです。

 

 

 

『言われたまんま、真に受けたんやな。まだまだ甘いなぁ。大人の常識を身につけていかなあかんな。』
と、カウンター越しにマスターさんも話を続け、

 

今度は私に
『会社組織に勤める社会人の常識で考えたら、こういうことをちゃんと判断できて当たり前やで。』と、ふってきたのですね。

 

 

私は、何だか違和感を感じてしまったのと同時に、この会話の空間は居心地が悪く早々と退散してきたのです。

 

 

 

このやり取り、どうなのでしょうか。

 

まさに、固定概念として住み着いてしまっている思い込みの常識が見えると思いませんか。

 

 

そもそも、彼は普段着でいいと言われていたのですね。

 

職場関係での挨拶を兼ねている場ではあるけれども、全く知らない人ばかりがいるわけでも無く、飲み会という設定で普段着でいいと言われて参加した場なのです。

 

 

 

なのにどうして失敗と思わなければいけないのでしょうか。

 

 

 

スーツを着てきた周りのみなさんは、普段着がスーツなのでしょうか。

 

 

彼以外にも普段着の人はいたらしいのですが、同僚がスーツで来ていたことが気になって仕方ないようです。

 

 

私は、むしろ彼は恥ずかしがることなく凜として胸をはり堂々としている方がカッコいい青年に感じられたのになと、失敗したと感じているその彼に言いたくなったのです。

 

 

 

周りのみんなが服装は自由と言われているけれどもスーツでくるのならば、自分も同じ様にスーツを着て行くことにしよう。

 

確かにそうすると無難だったのかもしれません。

 

 

目立つこともなければ、浮いている気がして居心地が悪いということも無かったかもしれませんね。

 

 

 

けれども、その場にスーツを着ていくことが必要だったのでしょうか。

 

 

 

もしも、堅い席でスーツを着てこなければいけない場だったのであれば、“服装はスーツ着用で参加して下さい”と、伝えられるはずです。

 

 

 

この場でのやり取りから考えられるのは、
マスターさんは、『普段着でかまいませんよという言葉の裏に、暗黙で察知するべき言葉が隠れているなどの回りくどいやり方に適応するのが、社会人の常識だよ。』と言いたかったのかもしれません。

 

 

 

けれども、そんなおかしなシステムに染まることが社会人の常識で、それができていない彼が、まだまだ勉強不足の半人前だなんて、本当にそう思って言っているのだろうかと、私は首を傾げたくなったのです。

 

 

 

スーツで参加することが望ましいのであれば、単純にそう伝えればいいだけなのです。

 

 

 

例えば、無地の白いコーヒーカップがたくさん並べてある棚があったとして、
そこに同じように白いコーヒーカップを一つ加えてもほぼ見た目は変わらないですし、全体はきれいに整い収まってくれるでしょう。

 

 

 

けれども、そこにお花の模様が描かれているような色や形の違ったコーヒーカップを一つ加えたとしたらよく目立ちますね。

 

 

もしも、白のコーヒーカップしか置いてはいけない棚だったならば、お花の模様のコーヒーカップを置くことは失敗になります。

 

 

 

でも、どのようなコーヒーカップを置いてもいいのであれば、あちらこちらに色とりどりの模様がついたコーヒーカップが並ぶようになりますから、一つだけが目立つということは起こらなくなります。

 

 

 

むしろ、それぞれの持ち味に気が付いて欲しいと、一つ一つのコーヒーカップ達が自分の一番美しい絵柄をアピールするように輝き出す…。

 

 

 

これは人に置き換えても同じことが言えるのではないでしょうか。

 

 

 

無難に目立たず静かにいることで、批判にさらされることもないでしょうが、自分の輝き、人格、個性など、一人の人間としての存在すら気付かれることもない状態になるようにも思うのです。

 

 

 

この彼が参加した今回の飲み会は、“普段着でいいですよ”ということでしたね。

 

 

 

つまり、コーヒーカップを並べている棚は白以外のものを置いてはいけないのではなく、いろんな色や模様が並び、それぞれの持ち味を輝かせていい棚だったと考えられるのです。

 

 

ですから、あえてどちらかを失敗とするならば彼の服装は失敗でもありませんし、
カッコ悪いと会場の隅っこで背中を丸め、恥ずかしいと思っていることの方が、むしろ失敗ではないかと私は感じたのですね。

 

 

目立つ必要もないでしょうが、カッコ悪いと思い込んでひっそりといる必要もないと思いませんか。

 

 

 

けれども、もうあまり余計なことをここで話す必要もないと感じ、この気持ちはそっと私の胸に納めて帰ってきました。

 

 

恥ずかしいという感覚・失敗という感覚

 

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  • 何に対して恥ずかしいのか。
  •  

  • 誰に対してカッコ悪いのか。
  •  

  • どういうことが失敗なのか。
  •  

  • そもそも、失敗は悪いことなのだろうか。

 

 

 

固定概念から植え付けられてしまった常識を疑ってみなければ分からないことなのかもしれませんね。

 

 

 

私は、“これが常識だよ!”と話してくる人との会話は、一つの考え方としていったん自分の“知識”の引き出しに置いてみるようにするのがいいと思います。

 

 

 

あくまでもその人の考え方であって、それが自分に当てはまる常識かどうかは、また別なのです。

 

 

 

 

私たち日本人は、周りと同じ状態を好む傾向があるようです。

 

 

例えば、人気ランキングで上位になっていたり、商品レビューで多くの人が使っていると聞けば、自分も買ってみようかなと興味を持ったりします。

 

 

あるいは、同じようにしている人が周りに見えると“あの人もしているしこの人もしているから安心”というような、自分だけじゃないということでの安心感を覚えたりしますね。

 

 

 

周りのみんながしていることだと、きっと間違えではないのだろうと無意識にそのものごとを正当化し、標準化しているのです。

 

 

 

周りのみんなと違うことをすると、失敗した気分になる。

 

 

 

周りの目が気になり、カッコ悪く恥ずかしいと捉える。

 

 

 

ただ、ここで少し考えてみてください。

 

周りと同じことをする事が常識で正しいとは限らないのではないでしょうか。

 

 

 

そもそも、この場合の恥ずかしいというのもカッコ悪いというのも、他人の目からどう思われているのかが第一になってしまっているのですね。

 

 

自分のことなのに自分の目ではなく、他人の目。

 

 

 

けれども、“自分にとって、これは恥ずかしいことなのか、カッコ悪いことなのか、失敗なのだろうか。”

 

と、他人の目では無く、自分という一人の人間としてどうなのかという目で自分を見ることができる事こそ重要なのではないでしょうか。

 

 

 

なぜなら、私たちは誰一人として他人の人生を歩んでいるのではなく、自分の人生を生きているのですから。

 

 

 

周りを見渡してみると、当たり前でこれが普通だと思っていることが、案外そうでもないことは、意外とよくありますね。

 

 

例えば、エスカレーターを思い浮かべてみてください。

 

片側に寄って立ち止まり、もう片側は歩く人に譲りましょうという暗黙のルールがあります。

 

 

 

関東と関西ではどこからがその境界線なのかは私は知りませんが、大阪では右側に寄って立ちますが、関東では左のようです。

 

その左右差を知った時は、不思議な感覚でおもしろいなと感じたことを思い出します。

 

 

私の目線で言うならば、右側に寄ることが当たり前と思っていたら、東京では真逆だったのですね。

 

 

これは地域によって常識があてはまらないケースです。

 

 

 

おまけにです。
近年では、そもそもがエスカレーター上を歩くことそのものが危険なのだという議論がなされていましたね。

 

左右どちらかをあけて急いでいる人に譲りましょうというのではなく、みんな止まって乗り、手すりにつかまりましょうと推奨されています。

 

 

少し前までは片側に寄ることが常識とされていましたが、それも当たり前ではなかったということですね。

 

 

 

多くの人がしている行動という場合、それと同じようにしていると、特に深く考えることも無く当たり前のように過ごしていることが多いと思うのです。

 

 

 

けれども、それが常識だという固定概念が無意識に脳に住みついてしまいます。

 

 

 

だからこそ思うのですね。

 

当たり前だと思って過ごしている日常を疑ってみることや、社会でこれが常識だよと言われていることが、絶対ではないのだということに気が付く目を持つことが大切なのではないかということをです。

 

 

 

 

私は、もしもスーツが必要な場面だと自分が判断したときには思い切りカッコよくスーツで決めていけばいいのだと思います。

 

 

 

そして、もしも周りのみんなと違っていたとしても、恥ずかしいと思い込んでしまう前に、
周りのその光景を冷静に見て本当に自分が恥ずかしくカッコ悪い状態なのか、その光景を疑ってみることが大事なのだと思います。

 

 

 

それこそ、失敗と思い込んでしまう考え方の癖に気がつくようになれば、おかしな固定概念の縛りから脱皮することができるきっかけになります。

 

 

 

 

そしてこれは、働き方や、生き方も同じなのですね。

 

気の合わない人達との複雑な人間関係や、時間に支配されながら限られたお給料を手にするために苦しみながら会社勤めをすることができてこそ、社会人として成り立つのだという固定概念。

 

 

 

社会の常識という固定概念に縛られてしまっていると、ふとしたときに自分は今何のために生きているのかと叫びたくなってしまう日がくると思いませんか。

 

 

 

私たちは誰の人生でもなく、自分の人生を送っていることを忘れたくないですね。

 

 

 

私も私の人生を送っています。

 

 

一度しかない自分の人生です。

 

 

できれば、笑顔で本当に大切な人と笑顔で過ごせる生き方をしたいですね。

 

固定概念,失敗,加藤あやめ,常識,自分,

 

 

加藤あやめ

 

 

 

 PS

 

 

 

私は今、自由に笑顔で穏やかな気持ちで生きていくことを目標にして過ごしています。

 

 

そう考えるようになってから、心が丸く穏やかでいられるように変わってきたように思います。

 

 

 

まだまだ道は長く続いていますし、凸凹浮き沈みもあります。

 

 

 

けれども、誰かの人生を送っているのではなく、自分の人生を歩いているのだなと、私の気持ちと向き合いながら送っている日々があります。

 

 

 

そういう感覚を取り戻せたのは、常識や固定概念のかたいウロコを少しずつはがすことができたからなのだと思います。

 

 

一歩ずつ、自分の自由への道を歩いて行けたら素敵ですね。

 

 

 

 

お便りや雑談など、いつでもお気軽にお問い合わせくださいませ。

 

 

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