“ま〜るい私”がバロメーター。思い込みの常識から脱皮




 

満月のように“ま〜るい心”思い込みの常識

 

こんにちは。

 

 

加藤あやめです。

 

 

加藤あやめ,まるい私

 

 

11月も半ば過ぎ、寒い冬がすぐそこまでやって来ているのを日に日に感じます。

 

 

 

日の暮れる時間が随分と早くなり、夜が長いと日中の活動に時間制限を受けているような錯覚さえ感じることがあります。

 

 

 

夕方5時を過ぎると、辺りはすでに暗くて買い物や散歩に出かけようという気が起きませんが、

 

ほんの2、3ヶ月ほど前だと、その時間くらいにならなければ、逆に熱くて外に出る気になれなかったわけですから、

 

お日さまの与える影響力は本当に大きいですね。

 

 

 

 

先日は68年ぶりに満月になった月が地球に近い距離で見られるということで、世界中で大きくきれいに撮されている映像がニュースでも流れていました。

 

 

 

大阪はあいにくの曇り空だったので、月を見ることはできませんでしたが、その数日前の月もきれいでしたよ。

 

 

加藤あやめ,床もみじ,月

 

 

 

私は、空を見ることが好きです。

 

 

 

 

都会であっても、人里離れた田舎であっても、はたまたずっと遠い地球の反対側にある外国であっても空は繋がっていて、

 

この丸い地球という星に向かって足をのばし、全ての生物が空に向かって一つの大きな輪になっている気がします。

 

 

 

そして、一つ一つのかけがえのない命を燃やして生きているのですね。

 

 

 

空は全てを一つに包んでくれている。そんな感覚がまた好きです。

 

 

 

 

その中の小さな命の一つが私です。

 

 

 

私という人間に生まれ、今存在しているのですね。

 

 

 

これは大人も子どもも関係なく全ての人がそうなのです。

 

 

 

私たち人間の人生など、もしも寿命までまっとうすることができたとしても、きっとあっという間なのだと思いませんか。

 

 

 

燃え尽きて消えてしまうまでのわずかな時間に、何ができるのかは分かりません。

 

 

 

けれども、ギクシャクした人間関係に悩んだり、追われるような毎日の仕事中心の生活で終わってしまうのは、あまりにも悲しいと私は思うのです。

 

 

 

 

少し考えてみてください。

 

社会に出て長い期間そのような生活を送っていると、そこにどっぷりと浸かり染まっていることにも気が付かなくなってくるのです。

 

 

つまり、その生活が当たり前のように思い込むのですね。

 

 

ですから、自分が“会社組織の中で働きやすいこと”が自分の生活スタイルや考え方の基本になっていて、そこに何の疑問も抱いていない日々を送っていることが多いのだと思うのです。

 

 

 

 

例えば、先日、知人と出かける約束をすることになったときに感じたことがあります。

 

 

 

「近いうちに一緒に飲みに行きましょう。」と、私の都合を伺ってくれるのですね。

 

 

 

そこで私は、今日の気分で声をかけてくれているのなら、今日でもいいわけですが、希望の日を聞いてくれたので平日の夕方を望んで伝えたのですね。

 

 

 

けれども、平日は敬遠されるわけです。

 

 

 

大概の人は金曜日か土曜日で…となるのですね。

 

 

 

なぜならば、会社の休みの前でなければ、飲む量や時間を気にしなくてはいけませんし、翌日の出勤のための早起きに支障が出ることを避けたいわけです。

 

 

 

 

“今日は、嬉しいことがあっていい気分だから楽しい気分で一緒に過ごそう!”

 

というような素直な感情での、「飲みましょう。」が、なかなかできないのですね。

 

 

 

ちょっぴりつまらない人生だなと感じてしまいますね。

 

 

 

これがまさに、“会社に行くことが生きていること”状態の、職場での自分の働きやすさベースが基準となった生活スタイルなのです。

 

 

 

長年、会社に雇われてサラリーマンをしていると、その考え方や生活リズムを持つことに疑問を抱かず、当たり前と捉えることが常識のある人で、

 

そこが分からない人間は社会人として非常識で落ちこぼれ人間的な冷ややかな目で判断している傾向がまだありますね。

 

 

 

それが、もしかすると大きな間違いかもしれないのにです。

 

 

 

中には、心のどこかで“何かが違う気がするな…”と、何となくは感じていることもあるのかもしれません。

 

 

けれども、それ以上に意識してまでは考えていないのですね。

 

 

 

実際、世間では会社組織の大きさや知名度で人を判断して上から目線で小馬鹿にしてみたり、あるいは妙に奉ってご機嫌うかがいをしてみたりする光景がありますね。

 

 

 

その光景にあまりいい印象を感じる人は少なくないと思うのです。

 

でも実は自分もそうだということに気が付いていない人は案外多いのではないでしょうか。

 

 

 

 

それこそ、まったくもって必要ないと感じる偏った見栄やプライドの高さが邪魔をしていて、

 

自分がもしかするとみっともない姿となっているかもしれないことを認めたくない意地が先に現われている場合もあるかもしれません。

 

 

 

そして時には人を蹴落としたり、文句やグチを抱えたままの生活を続けていると、いずれ自分の心も荒んできてしまうのではないでしょうか。

 

 

 

もしも、私の大切な人がそんな人間になってしまうことを想像すると、残念で悲しいです。

 

 

 

なぜなら、私たちは一人一人がみんな違う個性をもっていて、誰かと比べて優劣をつけることなど、神様でもできないことなのです。

 

 

学歴や育ち、勤めている会社の知名度などが、その個人の価値を決めるものではありませんね。

 

 

 

人をさげすみ、威張った態度をしている自分の姿を、心の鏡に映したらどんな人間にうつるのでしょう。

 

 

 

大切な人の心が、荒んでしまう姿を見て心穏やかに気分良く過ごすことは難しいですし、やはり悲しくなると思います。

 

 

 

 

 

私は、もしも人の態度を見て何かを批判しそうになったら、まずは考えてみることが大切な気がします。

 

 

 

“今、自分は何に批判を感じているのだろうか、そういう自分はどうなのだろうか…”と。

 

 

ここで言う考えるとは、人と比べるということではありません

 

 

自分の固定概念に疑いの目を持ってみるということですね。

 

 

そうすると、案外見えていない自分に気が付いたり新しい自分の引き出しが増えることができると思うのです。

 

 

 

心が荒んでしまわないためにも、できるだけ早い時期に思い込みで“社会の常識”と思っていることが、本当にそうなのだろうかと疑いを持ってみる。

 

 

 

そして、思い込みの“殻”から脱皮することに気がついた方が、心も身体も健康的になれる気がしませんか。

 

 

 

 

会社に勤めることだけが働くことではありません。

 

そして、働く事が生きることでもありませんね。

 

 

 

もっと自由に自分らしく生きてもいいのではないでしょうか。

 

 

 

 

私は、ギスギスした人間関係や、仕事に追われてくたびれてイライラしていている自分を、好きにはなれない気がします。

 

 

 

そして、人をバカにしたり、さげすんだ目で判断してしまう私よりも、もっと心が穏やかに優しい気持ちでま〜るくいてる私の方が、きっと子どもも好きと感じてくれると思うのです。

 

 

 

私は、こんなふうに考えることがあります。

 

 

もしも神様がいるとしたら、それは大切な子どもや愛する旦那さんや奥さんの心にま〜るい笑顔の私がちゃんといるかどうかのように思うのですね。

 

 

 

自分を大切に思ってくれている人の中に、醜い心の私ではなく、泣いたり笑ったり凸凹していながらも、泥くさくても自分の人生を真っ直ぐ生きている姿が映っていたら、

 

それが神様が見ているのと同じような感覚なのかな…と思うのです。

 

 

 

もちろん、実際は心の中を目で見ることはできないわけです。

 

 

けれども、大切な人の心が痛んだり傷ついたりしない生き方を意識することは、本当に大切な人に胸をはれる自分でいられて、大事にしている行動に繋がる気がしませんか。

 

 

 

小さな意識かもしれませんが、その一つ一つが積み重なっていくことで、思い込みの常識の殻から解放されるかもしれません。

 

 

想像してみてください。

 

もし、私と同じように大切な人の笑顔が、自分の状態のバロメーターだと思う人がたくさんいたら、素敵だと思いませんか。

 

 

“ま〜るい私”があちらこちらに溢れているのです。

 

 

“ま〜るい私”“ま〜るい僕”と、その大切な人の笑顔は、自分の心のバロメーターなのだと思います。

 

 

そしてそれは、思い込みの常識を疑ってみて、自分が働く事の本当の目的を考えてみると、進むべき歩くべき道に気づかせてくれるのかもしれませんね。

 

 

 

一度きりの人生です。

 

大切な人の心と、自分の心が喜ぶ日々を過ごすことを意識して考えてみませんか…。

 

 

 

加藤あやめ

 

加藤あやめ,思い込みの常識から脱皮

 

 

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私は、インターネットもパソコンもど素人でしたが、自由に、そして自分のペースでできる働き方としてブログアフィリエイトを始めました。

 

 

時間の自由、経済的な自由、人間関係の自由、そして心の自由を感じて残りの人生を過ごすことを決めたのです。

 

 

初めの一歩を踏み出すことには勇気がいりましたが、今はこうしてこの記事を読んでくださる方がいることを実感することができています。

 

 

自由に自分のペースで生きること、働き方を考えたいと感じたときが、始める時なのかもしれませんね。

 

 

今日は残りの人生の最初の日

 

心の自由への近道

 

 

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