「美味しい物は今食べる。」今を生きる…




 

美味しい物を食べると えがおが増える!

 

こんにちは

 

 

 

加藤あやめです。

 

 

 

 

 

まだまだ陽射しがキツく蒸し暑いですが、夕方の散歩をしながら

 

“最近は日の沈む時間が早くなってきたな” と妙に夏の終わりに何だか淋しさも感じる今日この頃です。

 

 

 

 

 

私は、病気の治療を始めてから味覚障害が起きてしまい、それまで好きだった食べ物ですら全く美味しく感じることができない時期が続いていました。

 

 

 

 

美味しいものを食べると、とっても満たされた気分になりますね。

 

 

 

 

私は、そんなに強いわけではありませんがお酒が好きだったので、新鮮なお魚や、美味しいお肉、はたまた素朴な採れたて野菜を蒸しただけなどの“酒の肴”をいただくと、至福の一時と感じ、顔がほころんでしまう性格です。

 

 

 

 

けれども、ある日を境に何を食べても美味しさを感じなくなると、それでなくても治療で食べることが辛いのに、更に気持ちまでどんどん沈んでしまいます。

 

 

 

 

治療を終えてからも、特に食事に制限があるわけではなかったのですが、食欲はなかなか戻らず、お酒も美味しく飲めなくなってしまいました。

 

 

 

 

最近のブームなのか、テレビなどの情報番組でもやたらと健康や病気に関する番組が多い気がしますが、ただ長生きすることが本当の望みなのだろうかと考えてしまうことがあります。

 

 

 

 

健康のためには、「これは食べてはいけない。」と、我慢したり、あるいは、「特別な日でもないのに贅沢だ。」と、特別な日が来るまで自分にとってのご馳走をお預けしている人もいるかもしれませんが少し考えてみてください。もしかしたらそんな日は都合よくやってこないかもしれませんね。

 

 

 

少し考えてみてください。
皆さんは“介護の視点”と“看護の視点”という話を聞いたことがあるでしょうか。

 

 

 

 

介護は「その人の生活に寄り添うことを重視して日常生活に困っていることへの支援」を考えます。

 

 

 

一方、看護は、医療を基準とした目線で考えますから、「今、目先にある病気をとにかく治しましょう。」という考えを基にケアをします。

 

 

 

つまりは、介護も看護もその人のことを考えてその人にとって “こうしていくことがいいのではないか” と一番いいだろうと思う対応を考えているわけですが、時に対立してしまいます。

 

 

 

どういうことかと言うと、例えばです。

 

身体が弱っているお年寄りの方がいたとします。何らかの病気や障がいは、ある程度の高齢になれば誰にでも1つや2つは出てきますね。

 

 

 

 

けれども、そのお年寄りの方は自分の意思があり、少しずつでもいいから、自分の口から自分の食べたい物を食べさせて欲しいと考えています。

 

 

 

 

仮に、大好きなお饅頭にかぶりつきたい!と思っているのですが、ドクターストップがかかって我慢しているとします。

 

 

 

長生きするために、少しでも病気を改善していきましょうと、「甘い物は禁止」と言われてて、好きな物は我慢し、苦手な物ばかりを食べざるを得ない日々を送っているわけです。

 

 

 

 

身体をいたわってのケアですが、そこに疑問が浮かびます。

 

 

 

心は満たされているのでしょうか。

 

 

 

 

そこに、そのお年寄りの気持ちに寄り添うケアとして、お饅頭を用意し一口だけでもお饅頭にかぶりつけたとしたら、きっと笑顔を見せてくれるでしょう。

 

 

 

 

私たち人間は感情があります。心をなおざりにしてまで長生きすることに果たしてどれだけの価値があるのかと考えずにはいられません。

 

 

 

 

こういうことは、特別お年寄りの方に限った話ではありませんね。

 

 

 

 

私は、最近になり、ようやくお酒も食べ物も美味しいなと感じる感覚が戻ってきてくれだしました。

 

 

 

 

だからこそ思うのです。

 

美味しいと味わって食べることができる今、好きな物を食べることに必要以上の我慢もいらないし、先送りにしても美味しく笑顔で食べられるかは、わからないと。

 

 

 

 

今を素直に生きたいですね。

 

 

 

 

 

 

つい先日、友人と呑みに出かけました。

 

 

 

新鮮な鶏のお造りを食べられる今があるのは 幸せです。

 

 

 

 

食いしん坊の友人は、肝を追加でペロリ。  お酒もすすみます。

 

 

 

 

焼いた長芋は、すり下ろしのとろろとはまた違ってホクホクです!

 

 

 

鉄のお皿の中でグツグツと煮えたガーリックの効いたオリーブオイルの中にキノコが光っています。  ニンニクが苦手な私でも、意外にあっさりとしていて食べられました。

 

 

 

 

どれもとても美味しくて、食べたいと思っている “今” に食べているからこそ心が満たされていると実感します。

 

 

 

 

 

私は“生ものは厳禁”だったころには、お造りなど絶対に食べられませんでしたし、そもそもが、食べたいという意欲さえ湧かなかったのですね。

 

 

 

そして、未だに食は細いままです。

 

 

 

けれども、沢山ほおばることを望んでいるのでは無く、ほんのひとくち、ふたくち美味しいなと実感しながら、好きな物を食べられれば、それだけでとても嬉しいのです。

 

 

 

気の合う友人と飲み交わし、美味しいものを摘まんでいると自然と笑顔があふれてきます。

 

 

 

病気をしたからこそ、好きなものが食べられる今があることに、改めて喜びを感じるような気がします。

 

 

 

今を生きる

 

 

私は、毎日通勤を繰り返す生活スタイルを放棄しました。

 

 

 

 

病気の後遺症があるということだけでは無く、癌の既往歴(癌にかかり、長期間抗がん剤などの治療を受けていた人)をわかった上で採用してくれる会社はなかなかありません。

 

 

 

 

おまけに40歳を回ったおばさんですから、働ける場は限られていますね。

 

 

 

 

それに、そもそも私は『毎日追われるようにして通勤し、寝るためだけに帰ってくる。それでもギリギリの生活しかできない…そのような生活はもうしたくない。』と、心の中でずっと思っていました。

 

 

 

 

 

私たちは、生まれたときから死に向かって進んでいます。

 

 

 

 

わずかなお給料をもらうためだけに窮屈な職場の規律や人間関係を我慢して、死に向かっている時間の大半を仕事に追われ続けて過ごすのはあまりにも虚しいです。

 

 

 

でも、生活していくためにはお金が必要ですから働かなくてはいけませんね。それこそ食べたい物も食べられません。

 

 

 

特に、私の様に独り身だと支えてくれる旦那さんがいませんからなおさらです。

 

 

 

 

“どうせ仕事をするのなら、自分の心が素直でいられる自由な働き方をしよう。”と、思いブログでのインターネットビジネスに挑戦できたのも、今だったからかもしれません。

 

 

 

就職できない自分はダメな人間の様に後ろめたさを感じ思い詰めることもありましたし、とにかく働きに行かなければ!と、無理に自分を追い込もうとしていましたが、外に出て雇われて仕事をするだけが全てではないんだと気づき自分自身が腑に落ちたことで、気持ちが楽になれたのを思い出します。

 

 

 

ブログを始めて働き方を少し変えたことから、“今食べたいと思うものは今食べよう” “美味しいと感じられる今”の気持ちと時間を大切にしたいと素直に思うようになれました。

 

 

 

 

 PS

 

 

“美味しいものを、好きなものを、今望んでいるのだから今食べる” というのは、別のことにも当てはまります。

 

 

 

“今を大切にする”行動に意味があり、価値があるのだと思います。

 

 

 

先延ばしにして、いざ、食べようと思った時にはもう手に入らないかもしれませんし、そもそも明日が当たり前の様にやってこないことだってなきにしもあらずです。

 

 

 

今できることは今しておくことで、後悔することを少しでも減らせられるのでしょうね…。

 

 

 

もっと自由に生きていいのだと思います。

 

 

 

私は、今はそんな気がします。

 

 

 

 

加藤あやめ

 

 

 

 

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