加藤あやめのプロフィール




 

癌の宣告。ただ生きているだけで誰かの役になっている

 

クリスマスになった一本の電話

 

 

数日前に診察を受けた婦人科からのものでした。

 

 

 

卒業まで、残すところ数ヶ月となった冬の初めに、私はとても疲れやすくなり、身体に違和感を感じるようになっていました。

 

 

歳のせいだろうなとあまり気にしていなかったのですが、講義の時間も少なくなっていたので、時間に余裕がありました。

 

 

 

ですので、残りわずかな学生生活での割と自由な時間があるうちに、今の勉強と併用して別の資格の学校にも通おうと申し込みをしたり、就職してからではなかなか時間は取れないだろうと思って、自治体から案内で送られていた簡易な子宮癌検診を受けたのですね。

 

 

 

 

結果、何もなければ、疲れやすい体調不良も歳だからなのだっと納得できると思っていました。

 

 

 

 

その検診を受けた数日後に、病院から直ぐに来てくださいという呼び出しでした。

 

 

 

 

   ここから、私の道は、また大きく舵を切ることになりました。

 

 

 

 

 

治療を進めていく日々の中で、独りでこれからどう生きていけばいいのかと生きる希望も気力も失い前向きな気持ちになれなかった私は、同じ様な境遇の人はどうやって生きているのか知りたいと思いました。

 

 

 

 

病室のベッドの上でも思いましたが、一時退院時の数日間に一人で自宅にいるときが、どうしようも無く落ち込みました。

 

 

 

 

不慣れなスマホで色々検索してみては、ため息ばかりでただ長い時間が無駄に流れているような毎日でした。

 

 

 

  現実的な情報にふれたい

 

 

 

 

同じ様な状況の方や心境の方は、本当は、

 

本音の部分の “思い” “言えない心の声”

 

とどう向き合って過ごしているのだろうか・・・

 

 

 

単なる『闘病日記』ではなく、仕事をどうしているのか、収入は?日々の生活をどう成り立たせているのか、どういう気持ちで一日一日を過ごしているの?など、現実的な情報が欲しいと思いました。

 

 

 

 

勿論、その時その時で私の心のあり方や感じ方も変化していたので、たまたましっくりくるものに出会えなかっただけなのかもしれません。

 

 

けれども、自分が共感し、心に自然と馴染んでくる様な “声” に出会えませんでした。

 

 

 

癌患者さんの投稿など検索して読んでみると、

 

  「旦那さんや家族の支えがあるから前向きに乗り越えられました。」

 

  「主人がいてくれるのでゆっくり生活して療養しています。」

 

のような、私には何の参考にもならないどころか、さらに気力を失い落ち込む要素にしかならなかったのです。

 

 

 

 

入院中にも毎日のように旦那さんやご家族の方が来てくれている他の患者さんを見ていると、やはり羨ましいなって感じていました。

 

 

 

私は、独りでした

 

 

 

もちろん、遠く離れていたとしても両親の存在は有り難かったですし、離れて暮らす我が子の存在はとても大きいものです。

 

 

 

我が子を持つ母であればおそらく同じ様に自然と感じる思いではないでしょうか。

 

 

 

どんな状況であれ何があっても、何よりも大切で何よりもかけがえのない私にとっては目に入れても痛くない天使です。

 

 

ただ、いわゆる自分のパートナーと言える様な心のより所というのでしょうか。

 

 

生きる支えとなる人が側に居ませんでした。

 

 

 

病気のことは、ほんの数人の友人にだけ打ち明けただけなのですがいつもと変わらずの距離感で温かく見守ってくれていました。

 

 

 

仕事のお休みの日に時間を作って、あるいは用事の合間をぬって病室まで顔を出してくれて嬉しかったです。

 

 

また、もう何年も会う機会のないまま、連絡を取り合うこともなくなっていた古い友人が訪ねてきてくれたこともあり、
皮肉な話ですが、私の病気が懐かしい顔との再会に一役買ってくれたような結果となり、ほんのりと温かい穏やかな一時をいただきました。

 

 

それはとても感謝でした。

 

 

 

 

けれども、私は独りでした。

 

 

 “先の見えない漠然とした不安”

 

 “孤独”

 

 

その気持ちはもしかすると病気になるよりもずっと前から心の奥底にあった、
見えない得体の知れない〈物体〉、
見ようとしてこなかった〈物体〉だったのかもわかりません。

 

 

 

今フッとそう感じたので書きましたが、当時はそこまでは感じていなかった様に思います。

 

 

 

私は、本音の部分とその得体の知れない不安を上手く吐き出すことが出来ませんでした。

 

 

 

 

「頑張ろう!きっと治るよ。」
「大丈夫よ。あなたなら何とかなるよ。きっと乗り越えるよ。」

 

(うん。そうだね。ありがとう!頑張るよ。)

 

 

こういうやり取りが一般的なのでしょうか。

 

テレビドラマや映画の世界では、患者とその家族や友人などの取り巻きが涙を流しながらもみんなで支え合い乗り越えていき、感動させられる温かい時間が映し出されますね。

 

 

 

本当にみんながみんな、そんなきれい事で過ごしているのでしょうか。

 

 

 

 

私は、以前からテレビドラマや映画を観ている時に思っていたのですが、メインとなるワンシーンから次のシーンに飛んでいるその間の部分が一番知りたいし、
感じたい部分なのに、どうしてそこの描写は省かれてしまうのだろう。

 

 

 

そこに行き着くまでの心の葛藤や行動などの過程を知りたいし、きっと醜い部分もあるはずなのにと。思う事があります。

 

 

 

少し想像してみてください。

 

 

例えば、会社に勤めている旦那さんが大ケガをしたとか病気になってしまい長期の入院で仕事ができなくなり、奥さんもパートや家事や育児に日々追われているとします。

 

 

 

きっと、洗濯物など毎日していたことが1日おきや2日おきになって溜まってきます。

 

 

子どもの食事だってまともに作る時間は持てず、冷凍ものやインスタントものが増えますよね。

 

 

空いた時間に旦那さんの病院に行くので、片付ける間もなく掃除も追いつかず自ずと部屋は散らかり放題。

 

 

経済的にも苦しくなりますから、少しのことでも気持ちにゆとりが持てなくなり、イライラしてくると思うのです。

 

 

 

それでなくても身体はヘトヘトに疲れていますから、家事をする時間を削って睡眠に当てなければそんなハードな毎日をずっとは続けられないです。

 

 

 

そうすると、病気の旦那さんを想う気持ちが無いわけではないのに、優しく接することに『努力』しなければできなくなったりすることってあるのではないでしょうか。

 

 

 

そんな自分にまた腹が立ったり情けなくなったりすることもあると思うのですね。

 

 

 

そんな中、追い打ちをかけるように、親戚やご近所とのトラブルが起こるかもしれませんし、奥さん自身も病気で倒れるかもしれません。

 

 

 

 

ですが、テレビドラマの中では常に綺麗な部屋ですし、現実的な困窮している様子は今ひとつ見えないです。

 

 

 

一視聴者としては、その大変な状況から、具体的にどう動いて解決していったのだろうっていうヒントになるような部分が知りたいのにと思う事がありませんか。

 

 

きっと、多くの人が理想として感じているまさに作られた“美しいドラマ”だと思います。

 

そして、実際のところはそこには遠いから魅了されるのかもしれないですね。

 

 

 

ただ、私は、そういった綺麗で感動するストーリーを、以前の様に素直に感じ入る事ができなくなりました。

 

 

 

そんなに世の中の多くの人達は、前向きで強く綺麗に生きているのでしょうか。

 

 

また、そうでなければいけないのでしょうか。

 

 

病気と闘う強さを持つことが善で、

 

 

そこに迷いを感じたり前向きな気持ちになれない人は、疎外感を持たなければならないのでしょうか。

 

 

 

入院中のベッドの上で様々な思いがこみ上げました。

 

 

 

誰かに話すことで、その

 

 “先の見えない漠然とした不安”

 

 “孤独”

 

が解消されるのだろうか。

 

 

 

 

こんな表現は心配してくれていた方々には失礼と思われても仕方ない事なので言いにくいのですが、
本当の気持ちは理解してはもらえないなぁと感じていました。

 

 

 

 

励ましてくれたり、見守ってくれたり、そういう優しさに有りがたい気持ちはありましたが、日を追うごとに生きることへの意欲が全く持てなくて、

 

死への恐怖よりも、生への不安の方がどんどん膨らみました。

 

 

 

  生きていたくない。

 

 

生きることの不安

 

 

 “この先どうやって独りで生きていけるの”

 

 

先ほども書きましたが、癌がわかったときは、失職中で収入も無く独り身で経済的にも精神的にも支えになってくれるパートナーも居ませんでした。

 

 

 

そして私は、離婚して子どもを引き取ることができなかったので、子どもとの距離がありました。

 

 

子どもを引き取れなかった事で私自身とても寂しかったですが、子どもにはそれ以上にもっと辛い寂しい思いをさせてしまったのだろうなと悔やむことや、私の我慢が足らなかったのかなと自分を責めるときもありました。

 

 

 

 

でも、病気になりこのどうしようもない状況になったとき、「引き取っていなくてよかった。」と初めて心から思いました。

 

 

 

“癌”という病名だけで、死が頭に浮かびます。

 

 

 

もしも私の元に居ていたとしたらどうなっていたのだろうと想像するだけで怖かったです。

 

 

 

母親の私は治療のために何ヶ月も入院しているわけですから、お金も無く子どもにはもっと寂しく辛い日常を送らせることになっていたでしょうし、食事や洗濯などの生きるために必要な最低限の事すらしてあげられなかったわけですから。

 

 

 

そして、もしかしたら今もうすでにこの世にいなかったかもしれませんしね。

 

 

 

診察台の上で1分後 あっさり告知

 

 

「あー これは癌だね−。」

 

「細胞の検査やCTなど他の検査もしますけど、大きいのが見えているし間違いないと思いますよ。」

 

 

 

 

検診での判定で、あまりよくない結果のため、年内に大きい病院に行くようにと紹介状を渡されて来た病院で
先に診察台での診察があり、主治医の第一声がこうでした。

 

 

 

 

病名の告知を一人で聞き、問診室で淡々と今後の治療過程の説明を聞きました。

 

自分で言うのも何ですが、とても冷静に受け止めていました。

 

まるで他人事であるかの様に。

 

 

 

 

治療を受けることでのリスク、女性としての機能を失い、後遺症と一生つきあっていかなければならないことなど、その僅かな時間の中での沢山の説明を受けながら、冷静に色んな事が頭の中をかけめぐり、脳がめまぐるしく動いていました。

 

 

  (治療は受けない)

 

 

それが、私の本心でした。

 

 

 

まだ色んな検査を終えていないその日の内に、手術の日程を押さえましょうとカレンダーを指し示し、話を進めていく主治医に私は待ったをかけました。

 

 

 

治療を受けない場合の1年後はおそらく手がつけられない状態になり数年の命だとの説明を聞きながら (治療を受けたくない) が私の本心でした。

 

まだ、癌が確定したわけではないですし、考える時間をくださいと話して帰りました。

 

 

 

もちろん、大きな病院で何人もの患者さんを治療してこられた先生が、検査のデーターを待つまでも無く入院や手術の日程を決めてしまうことを勧めてくださっているのですから、癌であることを確信してのお話だとわかりました。

 

 

 

 

世の中の多くの人は、少しでも早く治して生きていたいと考えると思います。

 

 

でも、私は生きることに希望が持てませんでした。

 

先にも書きましたが、私は離婚してからいくつかの仕事を転々としながらも、常に将来への不安がありました。

 

 

 

“年金もない。わずかな収入で貯金もできない。今は何とか食べていけてはいるけど、このまま一人で歳をとってからどうなるのだろう。“

 

 

 

そんな不安を取り除きたい思いから何か動かなくてはと考え、資格を取得できる短大に通っていました。

 

40歳を目前にした特に何の取り柄も無い元主婦ですから、簡単に正社員の仕事など見つかりません。

 

そこで、需要のある資格を取り、自分を見つめ直して学び考える時間を持ってみようと思って通っていたのですね。

 

 

その学校の卒業間近に癌であることがわかりました。

 

 

それでなくても将来への不安がずっと頭にある中、精一杯学校に通ってきて、あとわずかで卒業という時期でした。

 

無職で収入は無い上に治療をしても後遺症での生き辛さを抱えなくてはならない。

 

 

“もう、生き延びたくないと思ってもいいよね。” そう思っていました。

 

 

母の想い

 

 

  『私のために、治療を受けて生きる選択をしてちょうだい。』

 

 

 

離れて暮らしている母に、治療を受けないでこのまま残りの時間を過ごしたいと話しました。

 

母は言葉に詰まっていましたが、数日後に伝えられた母の思いはこうでした。

 

 

 

考えた末に選んだ言葉だったのだと思います。

 

 

 

確かに私も、自分の子どもが大きな病気になったとしたら同じ気持ちだと思います。

 

 

どんな状態でも生きていてくれるだけでいい。

 

子どもが先立ってしまうことなど考えられません。

 

 

そう思うと母の気持ちは痛いほどわかります。

 

 

相談したわずかな友人も誰一人として、治療しない道を望む私の気持ちをわかってくれることはありませんでした。

 

 

でも、本人が、自分らしく残りの数年をありのままの姿で心から納得できる道を選択することが、そんなにもいけないことなのでしょうか。

 

 

 

私は、治療を受けることで失うものの大きさを考えると、どうしても治療をすることが受け入れられませんでした。

 

 

 

私のような状況で、これから先、生き辛さを抱えながら独りで生きていかなければいけない道とわかっていながら、それを当たり前の様に勧めることが、本人にとってはどれだけ残酷で辛い選択になるのかを私は身をもって考えさせられました。

 

 

 

私のような弱い人間はなおさらです。

 

 

 

私の本心は、思っていても口にしてはいけない事のような、たとえわずかな期間しか生きられないとしても、自分の気持ちに素直に静かに自分の人生を送りたいと思うこと事態が人として許されないかの様な重圧を感じました。

 

 

 

とても悩んだ末に、積極的な治療を受けることには前向きにはなれななかったのですが、周りの人の気持ちに応えることが求められているのだっと結論を出し、手術を受けることにしました。

 

 

 

手術

 

 

 

 

入院の日の朝、大阪では滅多に積もらない雪が真っ白い世界をつくっていました。

 

 

 

生れて初めての手術を前に、真っ白のまだ誰も足跡を付けていない道に、自分のこれから先に待ち受ける見えない不安と、人生の分かれ道を提示されているような不思議な気持ちになったのを思い出します。

 

 

 

私の受けた手術は、骨盤内の女性生殖器のすべてと、リンパ節をごっそり取る手術でした。

 

 

 

 

もしもこの先好きな人ができて子どもを望まれても、もう二度と子どもは産めないですし、
排泄障害やリンパ節を取ったことで起こるリンパ浮腫が手術後直ぐに起こったので、それまで当たり前のように送ってきた日常生活がままならなくなりました。

 

 

 

手術後2ヶ月ほどで傷の痛みは和らぎましたが、ゆっくりとしか歩けないので、例えば横断歩道を渡るときに早く歩けず待っている車にイライラして煽られることや、浮腫が出ているために重いものが持てず、迷惑をかけている引け目を感じることもあります。

 

 

 

 

何よりも、尿意がわからなくなったので、確実にトイレのできる場所にしか出かけられなくなりました。

 

 

 

外出への恐怖です。

 

 

 

40歳とはいえ、私は女性ですし恥じらいもあります。

 

 

 

街で歩いていても知らないうちに尿が漏れていて、服が汚れてしまっていることに気づかなかったり、嫌な臭いを漂わせてしまい恥ずかしい思いをするかもしれないと想像するとどこにも出たくなくなりました。

 

 

 

ホルモンバランスの崩れから様々な症状も起こり、治療前に説明されていた

 

 “手術による後遺症と一生付き合っていかなければいけない”

 

その現実がありました。

 

 

 

働かなければ生活できない

 

 

手術後、水が溜まって経過がよくなかったので予定していた退院日が伸びてしまいましたが、ぎりぎり卒業式に間に合い無事に卒業できました。

 

 

それは40歳で一番嬉しい出来事でした。

 

 

でも、今度は仕事探しです。

 

 

 

せっかく資格を取れたものの、思うように身体を動かせないので健康な人達と同じ様に働くことはできないことは自分が一番わかっていました。

 

 

 

 

それでも有りがたいことに、すべての事情を話してまともに動けないことをわかった上で受け入れてくれる会社に雇ってもらうことができたのです。

 

 

 

まだ退院して数週間で傷の痛みもあり、仕事に就くことなどできないだろうなと思っていたので、決まったことは有りがたいけれど不安もありました。

 

 

 

非正規雇用のパートの仕事なので、福利厚生などの社会保障は何も無いですが、ハードなフルタイムの仕事は望めないわけですから、働かせてもらえるだけでもとても有りがたいと思い仕事を始めました。

 

 

 

手術後半年で 再発 転移

 

 

ところが、新しい環境で、毎日通勤することにもようやく慣れてきた矢先、腰の痛みを感じるようになりました。

 

 

 

手術して5ヶ月目の診察の時に傷の痛みは和らいできたものの、座っているときに鈍い痛みがずっと続いていることを主治医に伝えたところ、再発していることがわかりました。

 

 

 

今度は「直ぐに抗がん剤と放射線の治療を始めましょう。」というのです。

 

 

 

画像を見ると、素人目で見てもすでに腫瘍が圧迫して腎臓が大きく腫れているのがわかりました。

 

 

 

私は、また治療を拒否したらどうなるのかを尋ねると、数週間で腎臓が機能しなくなり人工膀胱になると説明を受けました。

 

 

 

半年前に手術して取ったはずなのにリンパ節に癌ができていて、もう手術はできないと言うのです。

 

 

 

そして、他にもあっちこっちに白い陰が映っているので、見えないものも含めて転移しているから全身をたたきましょうと言うのです。

 

 

  “そんなことなら、やはり初めから何も治療などしなければよかった”

 

 

 

私は、やりきれない思いでいっぱいになりました。

 

 

 

もともと、生きる希望もやりたいことも好きなことももう何もありませんでしたから、最初に病気がわかったときから生き延びたい思いは無かったわけです。

 

 

 

それでも、苦汁の選択により手術を受けたわけです。

 

 

 

私が手術によって失ったものは単に子宮や卵巣という臓器だけではありません。

 

 

 

自分らしく生きるよろこびや実感というような 〈心の部分の喪失〉 があり、それでも何とか張りつめてやり過ごしてきていた感情が静かに崩れてしまいました。

 

 

 

お腹に大きな傷ができ、リンパ浮腫で下腹部や足の付け根には水が溜まってブヨブヨ腫れていて、もう癌の治療はしないとしたなら、その代わりに今度はお腹に穴を開けて管でおしっこを出すというのです。

 

 

 

私は、もう、不自由さを人工的に作りたくありませんでした。

 

 

 

そのために残された道は放射線と抗がん剤だけだったのですね。

 

 

 

言われるがまま、数日後から抗がん剤と放射線の治療を受けるために長い入院生活が始まりました。

 

 

 

季節が三つかわりました

 

 

もう、この頃はある程度開き直っていましたので、のんびり入院生活を楽しもうと思いました。

 

 

 

仕事場に事情を話し、いつ復帰できるか未定の長期の休職。

 

 

 

そして髪が抜ける前に、長かった髪を思い切りベリーショートにして、抜け出すまでの一週間ほどはショートヘアーを楽しみました。

 

 

 

ハゲチャビンあたまに備えるための帽子やバンダナなどのショッピングも楽しみ、抗がん剤をしている期間は生もの厳禁だったので、食べられなくなる前に食べたいものを食べておこうと思い、お刺身や生野菜を好きなだけ食べて、長期戦に挑みました。

 

 

 

 

放射線治療は、平日毎日病室に看護師さんが声をかけに来てくれると、放射線科に行って5分くらいで終わります。

 

 

 

痛くもかゆくもなく、移動はいい運動でした。

 

 

 

 

腰の痛みはひどくなっていたので医療用麻薬を出してくれていて、そのほかの飲み薬も含めスーパーの大きな袋に満タンの買い物をしたくらいありました。

 

 

 

抗がん剤治療では、私は2種類の抗がん剤を使っていたのですが、4週に1回、朝から夕方まで点滴で一日かけて投与するものでした。

 

 

 

 

一般的によく聞く副作用として、吐き気がすごいと言いますが、何種類もの吐き気止めが出ていたので耐えられないほどの強い吐き気は無く、また、友達が気を紛らせることができればと病室に寄ってくれることもあり、とてもありがたかったです。

 

 

 

吐き気やむかつきは覚悟していたので、ショックはありませんでしたが、それよりも、辛い副作用がありました。

 

 

 

入院中に、たっぷり時間があるのだからと、色んな本を読もうと思って用意していたのですが、本を読もうと開いても一行の文章すら言葉の繋がりがわからない感覚になり、ただ字を見ているだけでその意味がまったく頭に入ってこないのです。

 

 

 

文章として読み進めることができなくなりました。

 

 

私は、強い薬で脳がおかしくなったとしか思えなくて、とてもショックでした。

 

 

 

手足のしびれで感覚がわからなくて、ものが上手く掴めない。

 

 

歩くときに足下の感覚が鈍くて気持ちが悪く歩きづらさもありました。

 

 

また、何を食べても美味しく感じられなくて、好きだった食べ物ですら全く美味しく感じなくなり、食べたいという欲もなくなってしまいました。

 

 

 

好きな食べ物が好きと感じられないのは何に対しても気力を失わせます。

 

 

 

髪が抜けるときは突然一気に抜け出しました。

 

 

最初の抗がん剤を投与してから、2,3週間ほど経っていたと思います。

 

 

シャワーで頭を洗うときに抜けるだけ抜けきってくれた方が、洗った後拭いているときに抜ける量が落ち着いているだろうと思い、引っ張りながら洗っていましたが、ほんとに、ごっそりと束になって抜け落ちていきました。

 

病院の入浴時には向け落ちる髪で排水溝が詰まらないようにと、毎日髪を捨てるためのビニール袋を持って行き、そっとゴミ箱に捨てる瞬間は、何とも表現しがたい胸にジワッとくる重たい気持ちのかたまりも一緒にそっと捨てました。

 

 

 

髪が束になって抜けると、頭皮が痛いのを知りました。

 

 

一週間くらいで髪ほとんどなくなり、中途半端に残った髪は、何ともいえないみっともない “ハゲ散らかした!” 状態で、自分でも笑ってしまいました。

 

 

 

みっともないので、完全スキンヘッドに剃ってしまいました。

 

 

 

眉毛もまつ毛もなくなり、全身脱毛状態でしたけど、お手入れしなくていいのでちょっぴり楽で特をした気分にもなりました。

 

 

 

週末には、遠方から母が顔を出してくれて、たわいも無い雑談をし、外来のフロアーでカップのコーヒーを買いに行くのが唯一の気分転換になっていました。

 

 

 

看護師さんは、風邪などの感染症にかかると合併症になりやすいからと、本来は外来フロアーに行くことはお勧めできないけれど、治療中の色々な制限の気分転換になるし、歩くことで運動にもなるからと言って見守ってくれていましたので、マスクに帽子とアルコール消毒は欠かせないアイテムになりました。

 

 

 

そんな入院生活も半年を超え、終了になりました。

 

 

 

 

夏の終わりからの治療の日々が終わる頃、季節は春に移っていました。

 

 

 

私は、手術をした後遺症と、再発での抗がん剤治療の副作用で、今も身体に不自由さが残っています。

 

 

 

  ここからの現実の苦しみ〈第三章〉→

 

 

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